2019年3月2日土曜日

五番:軍用線の土手跡に湧く水

 子供のころ、親戚の家に向かう京浜東北線や高崎線の車中で王子駅を過ぎてしばらくすると、車窓左側に線路に直角に交差する土手が見えた。土手は王子の崖の下から伸びていて、雑草の緑に覆われたその上には時折遊ぶ子供たちの姿があった。線路の右側にもその続きが少しだけ、丘のようにあったが、東北新幹線が通ったころにはなくなっていたように思う。

出典:「一万分の1地形図 赤羽」国土地理院(1984)より

 のちにこの土手は板橋の火薬製造所から現在陸上自衛隊十条駐屯地となっている十条兵器製造所を通って火薬製造所豊島分工場や王子火薬製造所分工場を結ぶ専用軌道の線路が、本郷台地から低地に下るために築かれたものであることを知った。
出典:今昔マップon the webより 25000分の1地形図 赤羽(大正8年)

 中学生になってその土手の発する崖側に行ってみた。王子から台地の上を北上する旧岩槻街道を進むと南橋と記された道路橋があって、その下に土手が見えた。線路は左手の自衛隊からこの橋を潜って土手へと抜けていたのだろう。橋の下を覗くと、土手につながる切り通しに十数軒のトタン屋根の平屋の家々が雑然と並んでいた。あたかもそこだけ、終戦直後の風景が保持されているかのようだった。

吉野忍さんのサイト「東京些末観光」の記事「王子バラック」に当時の写真が掲載されている。どれも記憶に残る懐かしい風景ばかりだ。
「東京些末観光」

 80年代末に土手は取り壊されて、1992年に京浜東北線の東側を結ぶ陸橋、その下に南橋トンネルが開通した。前回記事の名主の滝公園から台地の崖下を100mほど北上すると、このトンネルの出口に出る。かつての土手の風景は跡形もなく、威圧的な陸橋の下、トンネルが口を開ける。その道路の脇に、水の流れる短い水路がある。

 水路の長さは20mほどだろうか。マンションのエントランスや商業施設のコリドーなどにありそうな、人工的な水路だが、ここを流れているのは湧水だ。ガードレールや植え込みで囲われていて近寄りにくいのがもったいない。訪れた日の気温は一桁。水に手を触れるとかなり暖かく感じる。地下水ならではの、冬の温さだ。

水は蓋をされたコンクリート桝から豊富に流れ出している。ここが湧出地点なのか、それともトンネルを掘ったときに出た水を引いてきているのかは不明だ。

水は残念ながらすぐに排水口に落ちてしまっている。「王子七滝考」(倉木常夫 1989)によれば、写真右手、ここから30mほど南の崖には王子七滝のひとつ「大工の滝」があったという。水量はさほどではなく、崖上に池を作って水をため、来客時に滝の勢いを増したりしていたこともあったそうだ。また、軍用鉄道が開通する前には、ちょうど南橋トンネルの付近に「飴屋の滝」があって、茶屋にて囲碁や将棋、料理を供していたという。こちらは早くに無くなったためか、王子七滝にはカウントされてはいない。

 陸橋下、線路寄りの空間はちんちん山児童遊園となっている。軍用軌道には電車が走り、土手を通過する際にチンチンと鐘を鳴らしていたことから、付近の住民は軌道の土手をちんちん山と呼んでいたという。その名を残した小さな公園だ。
 公園といってもあまり設備はなく閑散としているが、片隅には、かつて土手の下を通り抜けていた石積みトンネルのアーチが保存されていた。上部にはお団子を重ねたような、東京砲兵工廠のマークがある。明治期から1980年代末まで、無数の人々がこのアーチを潜って土手を通り抜けたはずだ。

 土手が取り壊されてから30年がたち、トンネルのアーチと公園の名前を残して、土手の記憶は無くなってしまった。土手の上のバラックに暮らしていた人たちは立ち退いた後どこへ行ったのだろうか。終戦直後から住んでいたということは、もうこの世から去られた方も多いかもしれない。
 そして、トンネルたもとの湧水は土手があったころから湧いていたのだろうか。土手の上のバラックには水道など通っていなかったであろうことを考えると、切り通しの片隅に当時からひっそりと湧いていて、そこに暮らす人たちが使っていたのかもしれない。そうだとすると、この湧水は滝の記憶とともに正史には載らない土手上の住宅の記憶も引き継ぐ水であるのかもしれない、などと妄想しながら水が流れ落ちる音を聴いていた。


住所:北区岸町2
水量:ふつう
用途:親水スペース
立地:本郷台地
タイプ:崖線
湧出地点の標高;8m(流出口)
水系:石神井用水上郷用水
東京都湧水台帳コード:Ho-201
地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

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