2019年3月28日木曜日

十二番:木蓋の中の湧き水

 稲付川の流れの跡の道をそぞろ歩き。呼び寄せられたように路地の奥に入り込んでいくと、路上に小さな取手のついた木の蓋があった。傍らにはコンクリートの洗い場と伏せられたバケツが。

 ドキドキしながらゆっくり蓋を開けてみると、中には透明な、とても透明な水が佇んでいた。静かに、でも確かに湧き出している水の色。路上に仕掛けられた玉手箱。その密やかさにしばし心を奪われる。

 バケツが伏せられているところには板が渡してあって、その下に水が落ちていっているようだ。

同じ路地の先を見やると、もう一つ、同じような水桝が路上に


 中の水には動きや音はなく、先ほどのものよりは少しだけ鮮度が落ちているように見える。水の湧く量が少ないのだろう。季節が置き去っていった、紅葉した落ち葉が沈む。


近隣に住む老婦人がお出かけから戻ってきて、怪しまれるかと思いきや、お話を聞かせていただけた。かつては洗い物などに使えるくらい湧いていて、近所の人たちと井戸端会議になったものよと。
 近くの家の庭には、大正期から戦後にかけて川魚料理を饗していた遊鯉園の池が、大幅に小さくはなったものの、塀越しに見える。そしてこの湧水も、実はかつて池が大きかった頃、そのほとりに湧いていた水だ。
 そしてここも標高10m。それぞれの湧水は地面の下、同じ面の上を流れ出てきている。本郷台に深く刻まれた、稲付の谷。川はなくなれど、水はなお各地で湧き続ける。 

住所:北区(詳細非公開)
水量:少ない
用途:生活用水
立地:本郷台地
タイプ:崖線
湧出地点の標高;10m
水系:石神井用水中用水_稲付川
東京都湧水台帳コード:Ho-302〜304


地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工




2019年3月23日土曜日

十一番:稲付谷、水車小屋跡のささやかな湧水路

 路上に染み出す湧水(前回記事)から離れ、稲付川跡の谷底を挟んで反対側、北側の谷の斜面の下へと向かうと、遊鯉園の坂と向かい合うように、急な階段の坂が赤羽台の上へと急斜面を登っていくのが見える。この坂は、かつて近くに水車小屋があったことから「水車の坂」と呼ばれているそうだ。古地図を見ると、確かに、大正時代末頃まで、坂の北東数十mほどの場所に水車小屋があったことが確認できる。稲付川の流れを分けて迂回させ、そこにかけられていたようだ。
 水車小屋のあったあたりまで行ってみると、家々の立ち並ぶ間から、道に直角に交わるようにコンクリートU字溝があった。溝の底には絶え間なくサラサラと、水が下ってきており、手前の雨水桝へと流れ落ちていく。

裏側の路地に入り込むと、行き止まりで水路の根元にたどり着いた。崖に平行して水車の坂側(下写真右上)と北東側(左下)からU字溝の水路が流れてきて、ここで合流し、道路の方(左上)へと続いているようだ。

 水車の坂方向からの流れは、家々の裏手の壁下から流れてきている。柵に阻まれて奥の方まで確認することはできないが、明治や大正時代の地形図ではまさにこのあたりに水車の記号と水車小屋が記されている。

 手前の水路はここに来るまでの裏路地に沿って続いている。水は溝の途中まで満たしているのだが、その途中から水面が揺れていて、どこかから水が湧いているようだ。

 眼をこらして水の湧く場所を探して見ると、U字溝の継ぎ目の隙間から、こんこんと水が湧き出していた。閉じ込められていたところから解放されるように、溢れるように、勢いよく湧く水は生命を感じさせた。ここもまた、標高10m。目に見えない、地下のボーダーライン。

 動画で水面の揺らめきを撮影してみた。U字溝の側面を覆う苔や、継ぎ目から生える草は生き生きとしていて、水が常に流れていることが窺える。

 稲付川の谷底にはかつて水田が広がり、谷の斜面は雑木林が覆っていた。のどかな風景に、水車の軋む音や杵を搗く音が聞こえていたのだろう。しかし関東大震災後、一帯は台地の上も谷の下も、東京の市街地拡大の波に呑まれていく。水車は営業を止め、不要になった稲付川の分流も早々に埋め立てられた。
 それから90年以上たった今、当時の風景の手がかりは何もないし、それらを知る人ももはやいない。けれども水車の分流に注いでいた湧水は今もなお、ささやかに流れて、水の記憶を伝えている。

住所:北区赤羽西3
水量:少し
用途:なし
立地:本郷台地
タイプ:崖線
湧出地点の標高;10m
水系:石神井中用水_稲付川
東京都湧水台帳コード:なし

地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

2019年3月18日月曜日

十番:稲付谷の路上に滲み出す湧水

 十条と赤羽を隔てる稲付谷は、本郷台地をえぐるように刻んで南西から北東に向かう深い谷だ。谷底と台地の高低差は十数メートルに及び、また谷幅も細い。十条の台地の上からは、家々が密集する谷底を挟んですぐ向かいに赤羽の台地が見え、景観から地形がはっきりとわかる。

 谷底にはかつて水が各所に湧き、それらを集めて稲付川/北耕地川が流れていた。江戸時代以降は更に谷頭に石神井川から開削した石神井中用水を引き込んで、谷や谷から出た先の低地の灌漑に利用されていた。
 谷からはいくつか枝谷が伸びるが、その中のひとつ上十条と十条仲原の境目になっている谷は短いもののくっきりとしていて地形図を見るとよく目立つ。

 この谷には谷底を下る道のほか両側の丘の上に、谷を挟むように道が通っている。谷頭の方から北上すると、東側の道は「遊鯉園の坂」で谷底に下っていく。遊鯉園は大正期から戦前にかけて稲付の谷にあった、湧水池を有した川魚料亭で、戦後その池の大部分は埋め立てられてしまったが、一部は現在も個人宅の庭に残っている。
 一方、西側の道を北上すると、枝谷が稲付谷にぶつかるところで行き止まりとなるが、その手前にある急峻な階段で谷底に降りることができる。手擦りのついた標高差5mほどの階段から見下ろすと、谷底の路地のマンホール周りがびしゃびしゃに水浸しになっている。ここ数日、雨は降っていない。

 階段を下りてみる。見上げると視界いっぱいに崖の擁壁が迫る。崖の上のブロック塀が高さを嵩上げしている。そして路上を濡らす水は水たまりではなく流れがあり、それは上からは見えなかった鉄格子の雨水桝に流れ落ちていた。

 雨水桝の中に溜まる水に、路上の水の落ちる音が響く。よく見ると水は階段上から見えたマンホールの方にも流れ込んでいて、水音はそちらのほうがよく聴こえる。マンホールの空洞の中で反響する水音はインフレ状態の水琴窟のようだ。

 階段下の路地は突当りが民家になっていて、水はその中から流れ出てきていた。路面の標高は10m、またも、ここまで見てきた湧水と同じだ。目に見えない地層の境目がここまで続いてきている。

 近寄って見ると、崖の下に溝があって、溝と崖の隙間から水が湧いているようだ。あまり人の出入りはなさそうな路地ではあるが、とはいえこんなに水浸しで不便はないのだろうか。

 足もとをちょろちょろと水が流れていく。水に濡れる落ち葉の赤い色と、湿気をたっぷり含んだ青緑の苔の対比が鮮やかだ。ここだけクローズアップするとどこかの渓谷の地面にもみえなくはない。

 民家の方向と反対側には、崖下に溝がつくられていて、こちらにも水が溜まっている。縁には青々とした苔が生え、ミニチュアの土手のようだ。コンクリートの擁壁もうっすらと緑に染まる。アスファルトの路面も、溝から漏れた水が染みをつくっていて、水の気配が濃密に感じられる。空気までもがしっとりと水を含んできそうだ。

 本来流れてはいけないはずの路上に流れているという意味では事故的な湧水ではあるが、本来は谷戸の斜面の森の下、水田や湿原に湧き出す水だったはずだ。谷を家で埋め尽くし、路上や崖を塞いで塗り固めてもなお湧き出す水は、かつての稲付谷の渓谷風景の記憶を必死に伝えようとしているようにも思えた。崖と民家に挟まれた視覚的谷底に響く水音は土地の記憶にしばし耳を傾けさせたのだった。

住所:北区上十条5
水量:少ない
用途:なし
立地:本郷台地
タイプ:崖線
湧出地点の標高;10m
水系:石神井用水中用水_稲付川
東京都湧水台帳コード:なし

地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

2019年3月17日日曜日

九番:清水坂公園、疑惑の湧水池

 王子から東十条まで、本郷台地の崖線はわずかにカーブを描く一本のラインとなっているが、赤羽に近づくとそのラインを分断して3つの谷が台地に深く刻み込まれている。そのもっとも南側の「稲付谷」に入っていこう。

 埼京線がまだ開通しておらず、池袋から赤羽までの「赤羽線」だった頃、赤羽の手前、京浜東北線に合流する付近で、車窓が開け、窪地に木造の官舎が並んでいるのが見えた。それらは戦前に建てられた兵舎をそのまま転用したという、国鉄の官舎だった。どこか時代から取り残されたような空間で、背後の崖の斜面を覆う木々も印象的だった。
出典:「一万分の1地形図 赤羽」国土地理院(1984)より

 官舎は1980年代後半には取り壊されて、しばらく空き地となっていたような気がする。そして1994年には、全体が清水坂公園として整備され、斜面の地形を活用した人工の渓流や滑り台が設けられた。公園の片隅には、北区自然ふれあい情報館が建っているのだが、その裏庭の自然園にある池が湧水を貯めているのだと聞いた。
 以前池を見たことはあり、確かに崖下にあるのだが、果たして湧水なのかよくわからなかった。清水谷公園の窪地は稲付谷の枝谷の一つではあるのだが、自然の谷は公園北端から隣接する西が丘小学校付近までで、それより南は官舎を建てる際に丘を切り開いてできた人工の窪地だ。自然園の池が面する崖もその際にできたものだ。そして池の標高も14mほどと、近くの他の湧水がいずれも10m前後から湧いているのに対してやや高く、不自然だ。事実を確かめに、改めて池を見に行った。

 池の周りは、1日に数回あるガイドの時だけ入ることができる。参加した日は薄曇りだが寒さが緩いできた日。池の中にはあちこちにひも状のカエルの卵が見られた。背後の崖で冬眠していたアズマヒキガエルが、2月末に目覚めて産卵したという。その数110匹というから壮観、というより壮絶だったのではないか。この日もまだ何匹かの姿が池の中に見られた。

 冬の間ご無沙汰していたアメンボの姿も今年初めて見かける。アメンボは落ち葉の下で冬を越しているという。池から流れ出す水路にはメダカの姿も見えた。少しずつ、春が近づいている。背後の別の小さな池は水田で、初夏になると田植えがされる。

 さて、水の出どころは一体どこだろうか。池に注ぐわずかな流れを追うと背後の崖の斜面から出てきてはいるが、そこにはパイプかホースのようなものが見える。いったい水の出どころはどこなのだろう?湧水ではなく水道水ではないのか?

 ガイドの方に訊いてみると、実は公園内の別の場所に湧水があり、そこからポンプアップして引いてきているということだった。水道ではなかったが、ポンプアップということは地下水の汲み上げではないのか。
 さらにガイドの方からとりついでいただいた別の職員の方に聞いて、謎が解けた。確かに湧水はあった。教えていただいた場所は、池から南東に80mほど離れた公園の一角。円形の石組みに囲われたすり鉢型の窪みの底に水が溜まっていた。

 何度もそばを通っているはずだが、あまりに人工的な外観のせいで、これが湧水だとはまったく意識していなかった。灯台下暗し。地上の標高11mちょっと。ということは水面は10m弱で、これまで見てきた湧水と同じ高さから湧く水となる。掘り下げたことで、地下水位に達して水が出ているのだろう。そういう意味ではどちらかというと井戸に近いといえるし、池の底が地下水位より低くなっていることで水の湧く池も都内各地にあり、それらの仲間とも言える。このところ各地で目立つ地下水の渇水のせいか水位が下がっている様子で、水もあまり元気がない感じではあるが、この水が先ほどの池や水路の水源となっているということだ。低い池から高い池への水のトランスポーテーション。

 なお、「清水坂」は公園とは離れた埼京線の線路の東、若宮八幡神社脇を通る旧岩槻街道が、本郷台地から低地へと降りていく坂だ。切り通しの崖から絶えず清水が湧き出ていたことに由来するといい、こちらの湧水とは関係はない。

住所:北区中十条4
水量:不明
用途:池
立地:本郷台地
タイプ:池
湧出地点の標高;10m
水系:稲付川(石神井中用水)
東京都湧水台帳コード:Ho-3

地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

2019年3月11日月曜日

八番:荒沢不動の澄んだ水

 東十条駅前の湧水からさらに線路沿いを北上していく。東十条駅のホームを完全に通り過ぎたあたりで左手、台地の崖線の側を見ると、コンクリートで固められた擁壁の下に、古そうな石像を祀った小さなお堂がある。
「南無不動明王」と記された赤い幟。そしてお堂の屋根の赤、消火器の赤。彩度の低い景観の中で、赤の鮮やかさが目を引く。脇の塀に掲げられた説明板によれば、「荒沢不動」と呼ばれるお不動様だという。そして、小高くなったお堂の下には、よく見ると小さな池がある。

 池からは水が細い溝を伝わってちょろちょろと流れ出しているが、すぐに道路端の雨水桝へと流れ落ちてしまう。道路を挟んだすぐ先はJRの線路敷だ。

この荒沢不動は、江戸時代、厄病が流行った際に羽黒山の荒沢不動を勧請してきたものだという。荒沢不動とは、山形県鶴岡市の荒沢寺(こうたくじ)正善院のご本尊、荒澤大聖不動明王。荒沢寺正善院は現在は羽黒山修験本宗の本山として知られており、山門前には宿坊が並ぶ。

 「荒沢不動」は東日本各地にいくつかあり、伝わる由来は様々だが、実際には修験道の修験者を介して、厄病退散のため勧請したのではないか。この地の荒沢不動も毎年4月15日に、法螺貝を鳴らしながら村内を巡り厄病払いを行ったというから、修験道と関連が深いのだろう。また「荒沢不動の滝」と呼ばれる滝も各地にあるようだ。弁天様と池が縁が深いように、不動様と滝も縁深い。
 荒沢不動はかつては現在地より北の馬坂の下、環七平和橋の掛かる位置に池とともにあり、疫病払いの前には水垢離をしたという。そこにも滝があったのだろうか、とも思うが、この辺りでの湧水ライン10mはほぼ地上レベルなので、やはり滝は無理だろうから、池の中に入って身を清めていたのだろう。

 そして、移転先に現在の場所が選ばれたのも、そこに水が湧いていたからだろう。お不動様の前の池は清冽な水を湛えるが、とはいえとても小さく、水垢離をするにはなかなか厳しそうだ。
ただ、移転は鉄道開通時だというから明治時代。まだ水田と村落の風景が残り、水垢離の習俗も行われていたかもしれない。その頃はもう少し大きい池だったのかもしれないし、柄杓で汲んで被るくらいならこのサイズでもできそうではある。今では水を被る人もなく、水草の中を金魚がのんびりと泳いでいる。

雨水桝に落ちる水音を滝に見立てれば、お不動様の霊験もあらたかに感じられるだろうか。

佇んでいたら、猫がやってきて水を一舐め。水垢離場ではなく、猫の水飲み場だったようだ。

住所:北区中十条4
水量:少ない
用途:池
立地:本郷台地
タイプ:崖線
湧出地点の標高;10m
水系:石神井用水上郷用水
東京都湧水台帳コード:Ho-4
地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

2019年3月9日土曜日

七番:東十条駅前の溢れ出る湧水

 見晴の滝跡からさらに本郷台地の崖線を北上していくと、静かな住宅地の道はやがて線路沿いに出て、ひっきりなしに通過する電車と踏切の音が頻繁に聴こえる。崖線側の道端には「井頭まちかど広場」と名付けられた小さなスペースがある。井頭という地名があるということは、どこかに水が湧いている、もしくは湧いていたということだ。路地の奥に行くと、果たして崖線下にある個人宅の庭に、湧水を湛えた小さな池が見えた。

 別の路地でも、やはり崖線の突き当たりの個人宅に池が見えた。いずれも池の傍の崖側には祠があって、古くから水が湧いていたのだろうことをしのばせる。家々が段状に立ち並ぶ崖は、かつては木々に覆われていたのだろうか。

 この辺りから段々、崖線が線路に近づいてくる。十条駅の近くまで来ると、線路のすぐそばまで擁壁や、崖を切り取って建てられていた家屋が迫る。そして写真の左端の階段の下から、水が注ぐ音が聞こえて来る。

 水の音のする方を見ると、マンションの階段と行き止まりの私道の階段に挟まれた、細長いV字の隙間に挟まるように自噴の井戸のようなものがある。この中で湧いているのか、それとも奥の崖下に湧く水を引いて来ているのか。何れにしてもしっかりした量の水だ。
ここまで巡って来た湧水と同じく、ここもまた標高10mほど。もう少し南では滝となっていた水は、ここでは地表近くに湧く。

 水は蓋をされたコンクリートの桝から突き出す竹筒から絶え間なく流れ出ており、陶器の青い水鉢に注いでいる。前に来た時とは色が違っており、入れ替えられているようだ。それなりに大事にされているのだろう。桝はよくみると手水鉢や防火水槽のような簡易な意匠が施されており、案外古いそうだ。

 
 溢れた水は下の排水口へ落ちている。桝の端からも染み出した水が落ちる。

水に触れてみると、冬の冷たい風に冷え切った手には、とても温かく感じた。



住所:北区岸町2
水量:ふつう
用途:生活用水
立地:本郷台地
タイプ:崖線
湧出地点の標高;10m
水系:石神井用水上郷用水
東京都湧水台帳コード:Ho-11
地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

2019年3月5日火曜日

六番:見晴の滝の幻

空が広い。家々の屋根の海原は新幹線の高架で分断されているものの、その向こう側にも荒川とその先に続く平地が広がっている。

本郷台地の丘の縁、標高23mのこの場所には明治期まで見晴台があったという。その頃は眼下に見渡すかぎりの水田風景が広がり、遥か先には北関東の山々が見えたのだろう。さらに7000年ほど遡れば、そこには海が広がっていて、崖下には波が打ち寄せていたはずだ。見晴台にふさわしい場所だ。
 そして、この見晴台の下方の崖にはかつて滝がかかっていた。王子七滝の中でも最も北にあった「見晴の滝」だ。水量はかなりあり、崖下は滝壺のような池になっていたともいう。周囲は木が茂って鬱蒼としていたようだ。
 明治後期には神田区連雀町で代々乾物問屋を営んでいた小栗長兵衛が、崖を挟んだ台地の上下3000坪を買いとり、別荘とした。鬱蒼とした木々に囲まれた滝は私有地に取り込まれて知る人は少なくなり、いつのまにかなくなっていたようだ。明治から大正期の地形図には確かに、木々に囲まれた屋敷らしき区画が見える。ただ、滝はともかく池もそこには描かれておらず、その実態はわからない。
 出典:東京時層地図より大正期の1万分の1地形図

 ここまで訪れてきた本郷台地の湧水はいずれも標高11m前後に湧く。水を通しやすい本郷層と水を通しにくい東京層の境目がその高さにあるからのようだ。見晴の滝も、台地の上から落ちていればさぞ壮観だっただろうが、おそらく他の湧水と同じく、この地層の境目、11m前後から落ちていたのだろう。崖の下にはいったん12m前後の高さに中段があって、今は家々が密集している。そしてそこから一段降りた低地は標高5〜7mほど。なので、滝の落差は5mといったところだろう。名主の滝の男滝が落差8mであることを考えるとそれでも十分に思える。
 現在、崖線の大部分は擁壁に覆われ、直下には住宅が密集する。滝の姿はもはや望むべくもないが、せめてどこかに名残の水なぞ湧いていないものか。望みのほとんどない探索に、崖を下る。見晴台跡から台地を下る芝坂は古くからある急峻な坂だ。その名の由来は定かではない。


 崖線を下り切る手前の病院の裏庭の崖には、まるで名主の滝公園にあったような滝のような石組みが見える。水の気配はないが、見晴の滝となんらかの関係があるのだろうか。坂を下ると向かいには再び崖を登る階段が現れる。V字型に向かい合う、行ってこいの珍しい坂だ。

 崖下を回り込んで、滝があったと伝えられる地番の正面の路地に出る。背後の上方に見える崖の上が、先ほどいた見晴台跡だ。標高11m前後から滝が落ちていたとすると、一段高くなった所に並ぶ家々の、奥の方となる。そして手前の低いあたりにきっと池があったのだろう。

 路地に入って、中段に上がる階段を登る。崖下を崖線に並行する路地が通っている。家々はぎゅうぎゅうに密集していて、奥に入り込む路地はどこもどこかの家の玄関へと続く私道で、崖下には近づけない。そして、やはりどこにも水が湧いている気配はない。


諦めかけて中段への階段を下ると、その傍にきらりと光る水があった。中段と低地の境目の擁壁下に細い溝があって水が流れている。

 そしてよく見れば、擁壁に空いた水抜きの穴から、ちょろちょろと水が流れ出しているではないか。
 湧き出す穴の標高は8mほどだろうか。滝があったと思われる標高よりは低いものの、この水も世が世なら滝の流れに加わり、滝壺の池に注いでいたのではないか。
 引き返して振り返る。黄色い看板の下が水が湧く場所だ。標高11mから滝が流れ出す姿を幻視した。


近くには崖に突き当たる路地がいくつかあって、注意深く見て回ってみると、他にも水が見える箇所があった。
 階段脇の大谷石の擁壁の下、草むらに隠れて細い溝とそこを流れる水がちらっと見えた。近づける場所ではなく、どこから湧き出しているのかはわからないが、水面がかすかに揺れ、水に動きがあることを示している。

滝は無くなってしまったが、地下水脈は辛うじて生きながらえているようだ。ここまで見てきた湧水の中でもっとも地味ではあるけれども、他の湧水と同様に、それは土地の来歴を示す生き証人である。


住所:北区岸町
水量:わずか
用途:なし
立地:本郷台地
タイプ:崖線
湧出地点の標高;8m
水系:石神井用水上郷用水
東京都湧水台帳コード:なし
地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工