2019年3月18日月曜日

十番:稲付谷の路上に滲み出す湧水

 十条と赤羽を隔てる稲付谷は、本郷台地をえぐるように刻んで南西から北東に向かう深い谷だ。谷底と台地の高低差は十数メートルに及び、また谷幅も細い。十条の台地の上からは、家々が密集する谷底を挟んですぐ向かいに赤羽の台地が見え、景観から地形がはっきりとわかる。

 谷底にはかつて水が各所に湧き、それらを集めて稲付川/北耕地川が流れていた。江戸時代以降は更に谷頭に石神井川から開削した石神井中用水を引き込んで、谷や谷から出た先の低地の灌漑に利用されていた。
 谷からはいくつか枝谷が伸びるが、その中のひとつ上十条と十条仲原の境目になっている谷は短いもののくっきりとしていて地形図を見るとよく目立つ。

 この谷には谷底を下る道のほか両側の丘の上に、谷を挟むように道が通っている。谷頭の方から北上すると、東側の道は「遊鯉園の坂」で谷底に下っていく。遊鯉園は大正期から戦前にかけて稲付の谷にあった、湧水池を有した川魚料亭で、戦後その池の大部分は埋め立てられてしまったが、一部は現在も個人宅の庭に残っている。
 一方、西側の道を北上すると、枝谷が稲付谷にぶつかるところで行き止まりとなるが、その手前にある急峻な階段で谷底に降りることができる。手擦りのついた標高差5mほどの階段から見下ろすと、谷底の路地のマンホール周りがびしゃびしゃに水浸しになっている。ここ数日、雨は降っていない。

 階段を下りてみる。見上げると視界いっぱいに崖の擁壁が迫る。崖の上のブロック塀が高さを嵩上げしている。そして路上を濡らす水は水たまりではなく流れがあり、それは上からは見えなかった鉄格子の雨水桝に流れ落ちていた。

 雨水桝の中に溜まる水に、路上の水の落ちる音が響く。よく見ると水は階段上から見えたマンホールの方にも流れ込んでいて、水音はそちらのほうがよく聴こえる。マンホールの空洞の中で反響する水音はインフレ状態の水琴窟のようだ。

 階段下の路地は突当りが民家になっていて、水はその中から流れ出てきていた。路面の標高は10m、またも、ここまで見てきた湧水と同じだ。目に見えない地層の境目がここまで続いてきている。

 近寄って見ると、崖の下に溝があって、溝と崖の隙間から水が湧いているようだ。あまり人の出入りはなさそうな路地ではあるが、とはいえこんなに水浸しで不便はないのだろうか。

 足もとをちょろちょろと水が流れていく。水に濡れる落ち葉の赤い色と、湿気をたっぷり含んだ青緑の苔の対比が鮮やかだ。ここだけクローズアップするとどこかの渓谷の地面にもみえなくはない。

 民家の方向と反対側には、崖下に溝がつくられていて、こちらにも水が溜まっている。縁には青々とした苔が生え、ミニチュアの土手のようだ。コンクリートの擁壁もうっすらと緑に染まる。アスファルトの路面も、溝から漏れた水が染みをつくっていて、水の気配が濃密に感じられる。空気までもがしっとりと水を含んできそうだ。

 本来流れてはいけないはずの路上に流れているという意味では事故的な湧水ではあるが、本来は谷戸の斜面の森の下、水田や湿原に湧き出す水だったはずだ。谷を家で埋め尽くし、路上や崖を塞いで塗り固めてもなお湧き出す水は、かつての稲付谷の渓谷風景の記憶を必死に伝えようとしているようにも思えた。崖と民家に挟まれた視覚的谷底に響く水音は土地の記憶にしばし耳を傾けさせたのだった。

住所:北区上十条5
水量:少ない
用途:なし
立地:本郷台地
タイプ:崖線
湧出地点の標高;10m
水系:石神井用水中用水_稲付川
東京都湧水台帳コード:なし

地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

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