2019年2月27日水曜日

四番:名主の滝公園に残る湧き水

「王子七滝」は1910年(明治43年)に刊行された「東京名所図会」において、本郷台地の崖線の「稲荷の滝」(王子稲荷。前回記事参照)、「大工の滝」「見晴らしの滝」「名主の滝」、石神井川沿岸の「権現の滝」(王子神社下)「不動の滝」(正受院西側)「弁天の滝」(金剛寺そば)の7つの滝を選定してつけられたいわばキャッチフレーズが、その後独り歩きした呼称だ。一帯にはほかにもいくつかの「滝」があり、また北豊島郡誌では6滝、王子町誌では5滝のみがとりあげられるなど、かならずしも七滝という捉え方は人口に膾炙していたわけではなかったようだ。これらの滝は都市化やそれに伴う湧水の枯渇で徐々に姿を消していき、現存しているのは「名主の滝」だけだ。

 王子稲荷からさらに北西に向かうと、本郷台地の崖線は名主の滝公園の敷地となる。北側の入口を入ると正面に落差8mの男滝(おだき)が見える。こちらがもともと名主の滝と呼ばれていたようだ。豪快に飛沫をあげているが、もちろんこの水量の湧水があるわけではなく、ポンプアップの水が10時から16時の間だけ流れている。他、敷地内にはほかに独鈷(どっこ)の滝、湧玉(ゆうぎょく)の滝、女滝(めだき)の計4つの滝があるが、現在は男滝と湧玉の滝のみに水が流されている。

 名主の滝公園は、当初は嘉永年間に王子村名主の畑野孫八が自邸に開いた庭園だった。明治中頃には買い取られて行楽地となり整備されていった。その過程でポンプアップで滝の水量を増すといった手も加えられていった。1937年に庭園は精養軒の手に渡り、温泉や25mプール、弓道場、食堂や茶屋が設けられ、池にはボートが浮かべられた。当時の案内パンフレットを見ると「名主の滝遊園地」とある。敷地のあちこちには施設があり、滝はデフォルメされて大きく描かれている。名前も今とは違っていて、男滝は「名主の滝」、湧玉の滝は五香泉。その間には今はない瑠璃滝や徳川三代将軍御成滝など4つの滝が。女滝は熊野滝となっている。
出典:「王子名園名主の瀧遊園地案内図」精養軒(1940)

 精養軒の施設は戦災で全焼、敷地は1960年にようやく再公開され、1975年に北区の公園となった。小学生の夏休み、自転車に乗って水遊びに来たことが何度もあったが、公園になってちょうど数年しか経っていなかった時期だったということだ。男滝から流れる川は近隣の子供たちで賑わっていた。出来たばかりで人気だったのだろう。膝小僧を擦りむきながら流れを腹ばいになって進んで行くと柵があって、そこから先は庭園の鑑賞池として入れなくなっていた。宿題の絵日記にも何度か描いた記憶がある。今では石神井川の旧流路に作られた音無親水公園に人気を奪われ、夏でもあまり人気がないようだ。

 男滝からの流れを少し下って行くと湧玉の滝が見える。精養軒のパンフレットからは程遠い、小さな二段の滝だ。

 先に記した通りこちらもポンプアップなのだが、その裏手の斜面の林をめぐる遊歩道に進むと、道沿いに滝につながる水路があって、わずかだが水が流れている。辿って行くと、石の間からちょろちょろと水が湧き出している。ごくわずかだが、かつて滝をなした湧水が今でもかすかに残っているのだ。

さらに崖線を登って行くと、独鈷の滝に出る。滝本体はからからに干からびている。しかしこちらも手前の地面が湿っている。

 近づいて見ると、わずかに水が染み出しているようだ。この冬は雨が少なく都内各地で湧水の量が減っているのだが、ここもその影響があるとすれば、時期を選べばもう少しはっきりと水が湧いている様子がわかるのではないか。

 そして少し離れた女滝。ここも現在はポンプアップを止めているはずだが、滝の石組みの中腹、滝壺、そしてコンクリートの河床の間からははっきりと水が流れ出している。水に触れ、温度を確認したいところだが、残念ながらこの滝は近寄れない。

 「名主の滝」は比較的名が知れたスポットで、それだけに今は人工的に水を落としており湧水はとっくに枯渇してしまったと思われがちだが、こうしてよく見てみればかつての水脈がしぶとく生き残っている。100年前の人々を楽しませた豊かな水には程遠いけれども、でもこの場所に確かに天然の滝があったことを土地は覚えているのだ。子供の頃遊んだ水に少しだけでも湧水が混じっていたと知っただけで、ちょっと嬉しい。(その頃は涸れていたのかも知れないけれど)

 この後さらに本郷台地の崖下を北上していこう。ほかの七滝の名残も少しはあるだろうか。

住所:北区岸町
水量:湧玉の滝裏手 わずか
   独鈷の滝 滲み出る程度
   女滝 まあまあ 
用途:滝、せせらぎ
立地:本郷台地
タイプ:崖線
湧出地点の標高:10〜12m
水系:石神井川上郷用水
東京都湧水台帳コード:Ho-5

地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

2019年2月26日火曜日

三番:王子稲荷 滝の名残り

 飛鳥山公園から石神井川を渡って、北に続く本郷台地の崖線下を北上しながら引き続き湧水を巡礼していこう。飛鳥山公園側の崖線下には石神井用水下郷用水が流れていたが、こちら側にの崖下は同じく石神井川から水を引いた石神井用水上郷用水が流れており、崖の斜面に湧く水もそこに加わっていた。

 王子駅からしばらく歩くと、左手の崖線の中腹に王子稲荷神社が鎮座しているのが見える。お寺のような山門をくぐるとその先に、斜面を登る参道の石段がある。門から石段の間は併設の幼稚園の園庭となっているため、こちらから参拝できるのは休日だけで、普段は稲荷坂側の参道からしか入れない。

 かつては東国三十三国稲荷総司とか、関東八州の稲荷の総社ともされており、二月初午の火伏の凧市や大晦日の狐行列で現在でも信仰を集める由緒ある稲荷社だ。拝殿の裏手、崖線をさらに登ると「狐のお穴「もあったりして趣深いが、ここではかつて境内にあった「稲荷の滝」に注目してみたい。
 王子一帯の本郷台地の崖線や石神井川の渓谷に湧く水の中には滝状に流れ落ちるものがいくつかあって、江戸時代中頃に徳川吉宗が飛鳥山を花見の名所として整備した頃から、飛鳥山の桜、本郷台地の高低差がもたらす景観、石神井川の渓谷、寺社の森とともに、江戸の行楽地として賑わうようになった。それらのいくつかはのちに王子七滝などと呼ばれるようになるが、「稲荷の滝」もその一つだった。

 江戸時代末期の王子稲荷の様子が歌川広重の錦絵「江戸名所四十八景」に描かれている。山門の前に流れているのが上郷用水、そして石段の左側に見えるのが「稲荷の滝」だ。
出典:「江戸名所四十八景」紅英堂(1861(文久元年))より

 自然の滝というよりは、崖や周囲を石垣で整備した中に樋口で落としていたのだろう。他の図画を見ると、水垢離場として人々が滝に打たれる様子も描かれている。ここに限らず王子の滝の多くは崖から水が落ちている程度のものを敢えて「滝」に見立てたような程度のものだったという。庶民はそんな滝に設けられた茶屋で涼を取ったり水遊びをしたりして楽しんだようだ。

 1枚目の写真のとおり、現在滝のあった場所には建物がたっていて、まったく名残はない。一方現在、石段の右側には錦絵には描かれていない市杵島神社の祠があるのだが、近づいて見ると祠と石段の間に小さな滝のような石組みがある。

 一見枯れた滝のようだが、滝壺にあたる場所に埋め込まれている手水鉢には水が溜まり、溢れ出している。見上げると石組みの中腹から水が滲み出ていてそれが注ぎ込んでいるのがわかる。染み出す地点の標高はだいたい10m前後と、飛鳥山の崖下の湧水とほぼ同じ高さだ。

 溢れた水はほんの僅かではあるけど見てわかるくらいには動きと量をともなった、ささやかな、とてもささやかなせせらぎをなして石組みの渓谷を下っていく。

市杵島神社の参道が、流れには不釣り合いな、立派な石造りの太鼓橋で越えていく。かつてはもっと水量があったのだろうか。

 流れはコンクリートで作られた飾り気のまったくない小さな池へと注ぐ。幼稚園の子供達の水遊びにでも使われていたのだろうか。


 市杵島神社は厳島神社と同じく市杵島姫神を祀る神社で、要は弁天社だ。そばには泉や池、あるいはその跡が見られることが多く、湧水巡りには大変縁深い神様なのだが、この王子稲荷境内の祠がいつから祀られているのか、そして水が湧いていたから祀ったのか、祠にあわせて滝を作ったのかはよくわからない。もしかしたらかつての稲荷の滝の石材を再活用して滝をつくり、あわせて市杵島神社をどこからか移設してきたのかもしれない。いずれにしても、水はほんとにわずかではあるけれど、いつ見ても必ず湧き出している。それはかつての稲荷の滝と同じ水脈の水なのも確かだ。いつの日か、かつての稲荷の滝のように滝となって落ちることはあるだろうか。

※2019/2/28 水量がわかるよう動画を追加しました。ポタポタと落ちる水滴と、ちょろちょろと水路を流れる水が見えるでしょうか。



住所:北区岸町1
水量:滲み出る程度
用途:滝、池
立地:本郷台地
タイプ:崖線
湧出地点の標高;10m
水系:石神井用水上郷用水
東京都湧水台帳コード:なし
地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

2019年2月24日日曜日

二番:飛鳥山の湧水(2)崖線下の2ヶ所の湧水

さて、ストロー湧水があった場所(前回記事)から石神井用水下用水跡の道を線路沿いに南東に進むと、飛鳥山公園との境目の柵の下、コンクリート枡に水が落ちる音が聞こえてくる。その水は、崖の下の水溜りが大きくなった程度の池から流れ出ている。

そしてその奥には石組みの上からいく筋かの水がささやかな滝となって落ちている。滝の石組みは人工的なものだが、その水は本郷台地の崖線から自然に湧き出す水だ。
飛鳥山公園の明治通りに面した反対側には大掛かりな滝や渓流があって、公園を訪れた人々が憩い、夏には子供たちで賑わう。しかしそちらはあくまで人工的な構造物で、流れる水も水道水だ。裏側の崖線の斜面、ひっそりとした林に潜む本物の湧水を知る人は少ないだろう。
訪れた日は水辺に降りる小径は閉鎖され、野鳥が自由を謳歌していた。滝の水を飲みにヒヨドリがやってきた。

さらに南東に進むと、公園の敷地の端にもう1箇所、湧水が見られる。こちらは周りこそ石で囲って整備されているものの、水が滴り落ちるところには自然の地面が露出している。水が落ちている背後に見えるのはシルト層だろうか。飛鳥山付近の地質断面図を見ると、標高10〜15m付近より上が水を通しやすい砂や礫の山手層、その下が水を通しにくいシルトや砂の東京層となっている。ちょうどその境目を水が伝わってきている感じに見える。

湧水の後ろは標高25mの飛鳥山の台地、水が湧いているのは標高11m前後だ。6、7000年前の有楽町海進時、ここは奥東京湾の海岸線であり、波が打ち寄せる海食崖だった。台地の上では縄文時代前期の住居跡が見つかっている。縄文人たちは崖を降り、海岸線に湧く水を汲みにきていたのだろうか。そしてすぐそばを流れる石神井川で河川争奪が起こり、本郷台地を貫通して、今の上野方面から隅田川方面へと流路を大きく変えたのもその頃だ。
背後を数分おきに通過する列車の音が行き交い、台地の斜面の上からは囀る鳥の声が林に響き、そして足元では湧水がトポトポと落ちていく。現代と過去をつなぐ音に囲まれながら、滴る水を見つめ、そんな土地の歴史にしばし想いを馳せた。





この後は石神井川を越え、崖線の下を北上していこう。

住所:北区西ヶ原2
水量:小 (2ヶ所)
用途:池/なし
立地:本郷台地
タイプ:崖線
湧出地点の標高;11m前後
水系:石神井用水下用水(音無川)
東京都湧水台帳コード Ho-09/なし
地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

2019年2月21日木曜日

一番:飛鳥山の湧水(1)ストローの湧水

なんだこりゃ…?
土どめの積み石の上に飛び出た2本のストロー。その先からはチョロチョロと水が流れ落ちている。
2016年の暮、音無橋の下で石神井川から分水されていた石神井用水下用水、別名”音無川”の流れていたルートを辿って私は王子駅からJRの線路と飛鳥山公園の丘に挟まれた線路沿いを歩いていた。そこで出くわしたのがこれだ。
飛鳥山公園は上野の方から赤羽にかけて続く標高20〜25mほどの本郷台地にあって、台地の北東には高低差20mに及ぶかつて海食崖だった急斜面が続いている。そこには崖線型の湧水が各所に点在しているのだが、このストローを通る水もよく見れば背後の崖、落ち葉の積もる土から浸み出した湧水だ。
公園で遊ぶ子供たちが仕掛けたのか、あるいは通りがかりの大人が徒らに挿してみたのか。何れにしても放っておけば石垣の斜面に染みを作る程度の湧き水を一筋の目に見える流れに可視化したそのセンス。感心することしきりであった。

しばらく後に訪れた時も、別のストローに差し替えられて水の流れは健在だった。

そして2019年2月。王子から赤羽にかけての崖線に点在する湧水をめぐる旅の端緒として再びここを訪れてみた。
秋以降の雨が少なかったせいか、水は涸れて石積みはすっかり乾いており、少し元気のない苔や、隙間から生える草だけが水の名残となっていた。
石積みの上にストローはなかった。が代わりに隅の欠けた陶製の布袋様が鎮座しているではないか。一体誰が連れてきたのやら。
近づいてみると、布袋様の裏の土の表面には水が染み出していて、まだ水脈は絶えていないことがわかる。また雨がまとまって降れば、湧き水は息を吹き返すだろうか。そしてその時は、また誰かがストローを挿しに来るだろうか。
さて、この先にはもう少しはっきりした湧水が残っているはずだ。布袋様には一旦別れを告げ、そっちを確認しに行こう。


住所:北区王子1
水量:滲み出る程度
用途:なし
立地:本郷台地
タイプ:崖線
湧出地点の標高:11m
水系:石神井用水下用水(音無川)
地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工