2019年4月30日火曜日

十八番:入谷川(羅漢寺川)跡の湧水と三折坂の湧水

 目黒台に深い谷を刻む、羅漢寺川と呼ばれる目黒川の支流。その名は下流部にある羅漢寺に因むが、羅漢寺がこの地に来たのは明治時代で、それ以前は同じく流域にある目黒不動にちなみ不動川などとも呼ばれていた。3つの支流を合わせ、豊富な湧水の流れる川沿いには谷戸田が広がっており、明治以降は3つの池を備えた遊園「苔香園」や釣り堀池などもあった。
 現在川は暗渠化されてしまったが、今もどこか水の気配を残している。支流のひとつ入谷川沿いは特にそれが濃厚だ。入谷川は油面の交差点付近に流れを発し南下、羅漢寺川と林試の森公園の北側で出会った後向きを変え、目黒不動の境内まで平行して東に流れ、そこで合流していた。2つの流れの間は水田で、前者は谷戸の北側の、後者は谷戸の南側の崖下に沿っている。

入谷川跡の湧水

 入谷川跡沿いとなる谷戸北側の崖の擁壁は苔で覆われ、蔦が這う。川面を塞いだ路面のアスファルトはだいぶぼろぼろで、継ぎ目からは雑草が生える。水面を封じ込めてもなお、そこに水が潜んでいることを感じさせる風景であるが、その一角には今で水が湧いている場所がある。知る人の間では非常によく知られている、というと変な言い方ではあるが、一部では有名な湧水だ。

 擁壁から突き出すパイプから、じょぼじょぼと水が流れ落ち、水鉢に注ぐ。家々が背を向け、人通りもほとんどない路地の静寂に、その音は響きわたる。

 水温は17度ちょうど。湧きたて新鮮の温度である。水量には季節変動はあるものの常に勢いがあり、このまま下水に落ちていくのが勿体無いくらいだ。夏の暑い時期になるとパイプの周りに藻が生えていたりもするので、水質はあまり良くはないのかもしれないが、川があり、水が満ちていた頃の記憶を残すこの湧水はいつまでも残っていてほしい。


塞がれた湧水

 さて、川跡を少し下って振り返ってみる。水色の街灯柱が立っているあたりがさきほどの湧水だが、このあたりの崖側でも、水が湧いている(いた)場所がある。

 大谷石の護岸の下部に、コンクリートと瓦礫で塞ぎかけた穴が空いている。2015年の秋に訪れた時、この中から、水の音が鳴り響いているのに気づいた。

 中を覗くと、陶器の樋のようなところから水が落ちるのが見えた。多分そのまま汚水枡に落ちてしまっているのだが、かつて川が流れていた頃は、水面に注ぎ落ちていたのだろう。川の暗渠化に伴って、川と同じく水面を塞がれてしまった湧水はそれでも密かに、健気に水音を響かせていた。

 しかしこの水は、今年2019年の春先に訪れた時には涸れていた。この春の少雨の影響で一時的に止まっているのか、それとももう涸れてしまったのか。またその水音を聞きたい。

三折坂の湧水

 さらに川跡を下っていくと、目黒不動の敷地に突き当たる。その手前、北側の目黒台から坂道が下って来ている。坂の名前は三折坂(みおりざか)。坂がS字状に3回曲がっているのがその名の由来だというが、坂を下って目黒不動に参拝することからついた「御降坂」を由来とする説もあるそうだ。
 この三折坂の下のマンションの玄関前に、3段式の池のような設備がある。植え込みと一体化していてあまり目立たないがこれも湧水だ。

 こちらは以前この地にあった民家の庭先に湧き、生活用水に使っていた水をそのまま生かして、親水施設にしたという。1998年の調査では1分あたり20リットルとかなりの水量が記録されている(だからこそ埋め立てたりできなかったのかもしれない)。本来は各段に流れ落ちるのだろうが、訪れた時期は水量が少なく、最上段にだけ水が溜まっていた。ただ、設備と路面の隙間にも水が染み出していて、綺麗に整えた設備の綻びはいかにも湧水らしい。

 最上段の水の中には、石臼が置かれていた。特に注意書きなどがあるわけではないので、マンションの住民でもこれが湧水であることを知る人は少ないのかもしれない。全体のデザインの中で違和感を放つこの石臼は、設計者がここが湧水であることをささやかに主張するために置いたのかもしれない。水は静かだが澄んでいて、水温を計ると17.6度と羅漢寺川の湧水と同じくらいだった。2つの水はだいぶ姿は違っているけど、同じ水みちを辿ってきているのだろう。

【入谷川跡】
住所:目黒区下目黒4
水量:普通
用途:なし
立地:目黒台
タイプ:崖線
湧出地点の標高;14m
水温;17.0度
水系:羅漢寺川 目黒川
東京都湧水台帳コード:Me-202

【三折坂】
住所:目黒区下目黒4
水量:わずか
用途:親水施設
立地:目黒台
タイプ:崖線
湧出地点の標高;13m
水温;17.6度
水系:目黒川
東京都湧水台帳コード:Me-201

地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

2019年4月25日木曜日

十七番:中目黒ガスタンク跡の湧水と「松風園」の湧水池

 「平成」の初め頃まで、中目黒の台地の麓に、一帯のランドマークとなっていたガスタンクがあったのを、地元の方ならご存じだろうか。この通称「目黒のガスタンク」は1927(昭和2)年に竣工した、高さ45m、直径56mの円筒形のガスタンクで、目黒台の斜面を抉るように削って建てられた。元々は牧場のあった土地だという。タンクの立つ場所の標高は12m、目黒台の上は標高27mほどだから差し引き30mほど台地の高さを越えていることになる。ビルの高さに換算すると10階建てくらいだろうか、当時の目黒ではガスタンクは非常に目立ったに違いない。
 同じ年に東急東横線が渋谷まで開通、周囲は急速に市街化が進んでいったが、このガスタンクの敷地は台地上から斜面にかけて広葉樹の巨木が生い茂る森が残り、そこには水が湧き出していた。終戦直後の昭和21年、子供時代にこの湧水を見た方の回想から引用してみよう。

「傾斜地の下方の樹木や下草の間から清水が湧き出ていた。それは小さな流れを作り、低地には清らかな水をたたえた池ができていたのである。思わず近づいて池中を覗きこむと、水草が茂り、小魚が群れ、藻の陰には小エビが生息しているのが見えた。流れのある傾斜地にはサワガニが姿を見せていた。」
(平山元也「中目黒のガスタンクと高砂ゴム工場の煙突」(郷土目黒45号)より)

 1960年代にはガスタンクを囲む森の一部は東京ガスの社宅となって、切り開かれ、また、1972年にはタンクを筒状のものから球形に変更する工事も行われた。それでもこの湧水は残り続け、1988年の東京都の調査でも、1日5000リットル(1分あたり3.5リットル)ほどではあるが湧水が確認されている。
 1991年にガスタンクは台地上の社宅とともに撤去され、跡地は1995年にマンションとなった。ガスタンクのイメージを残した、円形に配置された独特の構造のマンション群の一角には「中目黒大使公邸」も建てられている。中目黒の大使というわけではなく、30か国の駐日大使が暮らす、大使専用のマンションだ。
 ガスタンク撤去前後の地形図を比較してみよう。
出典:一万分の一地形図「渋谷」左:1990年 右:1995年 国土地理院

 では湧水はどうなったのだろうか、というと、幸いにも開発時に目黒区の手により保全され、中目黒南緑地公園として残されている。現地を訪れてみた。

 公園の大部分は台地の斜面にあり、中央を南北に階段が抜けている。台地の上のマンションが高低差を強調している。

 階段の途中から北側を振り返ると、左手の階段を下りきったところに池がみえる。背後にはマンションの棟が迫り、ぎりぎりのところで保全されている様子がわかる。

少し角度を変えてみると、池に注ぐ水路が見える。この春は各地で湧水量が減少しているのだが、かろうじて水が流れている。

 湧出口は階段の西側の斜面にあって、草木に遮られて見えにくいが、えぐれ込んだ石組みの上からちょろちょろと流れ落ちている。

斜面となった水路を流れる水。湧水が多い時期ならもう少しはっきりとしたせせらぎとなるのだろうか。

 水は池へと注ぐ。水辺に近寄れないため、池の中に今も小魚や小エビがいるのかどうか、よくわからない。

 確かに湧水は今でも湧いていた。しかし、全く近づけないのはどうしたことか。水が湧水であることがどこにも触れられていないのも、少し寂しく思える。自然のままの水路や池を残しているわけではないのだから、親水性を持たせるような作りにしても問題なかろう。そうすれば、土地の来歴にももう少し関心がもたれるのではないか。今の子供にも、終戦直後のきらきらするような水辺の体験を味わえてもらえたらよいのだが、現状ではとても無理そうだ。

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 ガスタンクの湧水の南東50mの場所にも、もうひとつ、近寄れない湧水池が残っている。池は松風園コーポと松風園ハイツという2つのマンションの奥の崖下にある。東京都の湧水台帳には「松風園」と記されているが、マンションの敷地というよりは、その敷地の所有者である長泉院の池、といったほうがいいのかもしれない。
 長泉院は台地の上にあって敷地内に「長泉院付属現代彫刻美術館」を開設しており、彫刻の並ぶ公園のような屋外展示場の一角から柵越しに池を見下ろすことができる。
 池はコンクリートで固められた半月型をしていて、一見マンションの中庭のようにみえるが、マンション側とはブロック塀で隔てられているようだ。円筒形の鉢植えのような中島がいくつか設けられている。水は背後の崖線から湧き出しているようだがよく見えない。



 湧出地点の推定標高は15mと、ガスタンク跡の湧水と同じだ。湧水量も1988年の東京都の調査では1日5000リットルとこれもガスタンク跡と同じ。池の大きさからするとかつてはもっと湧いていたのかもしれない。
 長泉院の創建は1761年。それ以来1960年代まで、その本堂は現在マンションが建つ崖下にあった。寺院の名も、裏山から湧いた清水が境内に流れをなしていたことによるという。まさにこの池の水源の湧水であろう。1970年代初めに本堂は崖上に移転し、前後して崖下の敷地には松風園コーポ(1968年)と松風園ハイツ(1970年)が竣工、現在の池もそのころに整備されたようだ。
 さて、この「松風園」という名前は何に由来するのか。中目黒八幡神社からなべころ坂の間にかけて、1890年代に、広部銀行の創設者広部清兵衛の別荘「驪山荘」があった。8万平米に及ぶ敷地には斜面に庭園、丘の上に屋敷があったといい、銀行の接待にも利用されていたという。
出典「東京府荏原郡目黒村」(明治44年)東京逓信管理局

 地形図を見ると、かなり大きな池の姿も見えるが、大正後期にはこの敷地は高級分譲住宅として開発されることとなった。土地は造成され、池も埋め立てられた。しかし、昭和に入って広部銀行は経営悪化(1930年には廃業)、開発は箱根土地株式会社の手に移った。西武グループ、国土計画の前身である箱根土地はこの時期、小平学園や大泉学園など、都内各地の開発を手掛けており、それらの中で驪山荘跡は1935年前後より分譲が始まる(同時期に代々木上原の徳川山も分譲)。この際に名付けられた分譲地の名前が「松風園」だ。分譲開始直後の航空写真では、ガスタンクの北側にゆったりとしたその区画を確認することができる。
 出典:地理院地図 航空写真 1936年

 松風園の土地区画は現在でも道路の区画にその名残をとどめている。冒頭地図、中目黒八幡神社とガスタンク敷地の間に挟まれた扇型の区画がそれだ。したがって、松風園のあった区画と現在松風園を名乗る2つのマンションのある場所は当初からガスタンクの敷地で隔てられており、全く関係ないといえばない。
 なぜ松風園を名乗っているのか、マンションが建った時代はまだそれだけネームバリューとブランド性があったのだろうか。関係者に訊いてみたいところだ。ただいずれにしても現在松風園の名を残すのはここだけで、場所は違うけれども土地の来歴の記憶を残しているという意味では趣き深い。

【ガスタンク跡】
住所:目黒区中目黒
水量:わずか
用途:池
立地:目黒台
タイプ:崖線
湧出地点の標高;15m
水温;ー
水系:目黒川
東京都湧水台帳コード:Me-8

【松風園】
住所:目黒区中目黒
水量:不明
用途:池
立地:目黒台
タイプ:崖線
湧出地点の標高;15m
水温;ー
水系:目黒川
東京都湧水台帳コード:Me-9
地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

2019年4月21日日曜日

十六番:中目黒八幡神社 飲める神泉

 烏森稲荷神社に続き、次は中目黒駅を挟んで反対側にある中目黒八幡神社を訪れてみよう。かつての中目黒村の総鎮守社で、創建時期は明らかではないが、江戸中期にはすでにこの地にあったことがわかっている。こちらも目黒台の斜面に位置しており、水の湧きそうな場所だ。東北東に面した参道から境内へと入っていく。

 緩やかな上り坂となっている山道を50mほど進むと、石段につきあたる。ここを登れば境内だが、その石段の右手、石灯籠の裏をよくみれば、水鉢が見える。

 近づいてみると、ごつごつとした岩で覆われた斜面の下に、緑に囲まれた円筒状の石の水鉢があって、水が溢れ出している。脇には神泉と刻まれた石碑が立っている。

水は岩の中から渾渾と流れ出している。澄んだ水面が揺れる。水温は17.1度。

石段の右横の崖下は池になっていた。水鉢から溢れ出した水を溜めているのだろうか。

 さて、この神泉、神社の創建時からあったわけではなく、1923年(大正12年)に神社の境内を北側に拡張した際に水が湧き出したため、これを引いて神泉としたという。1960年代始め頃までは崖を流れ落ちる湧水が見られたというが、今はその気配はない。現在水鉢の水はどこから湧き出しているのだろうか。
 社務所にてお話しを伺ったところ、宮司の奥様らしきご婦人から、色々と教えていただけた。それによると、かつての水源は周囲の宅地化で水が少なくなり、今は社殿裏側の浅井戸に湧く水を引いているとのことだ。おそらく電動ポンプによる汲み上げなのだろう。ただ、真空方式で、汲み上げた後は自然流下、一日中止まることはないと繰り返し仰っていたので、もしかすると普段はサイフォンの原理で流しているのだろうか。石段の湧き出し口は標高15m、拝殿裏は標高20m。井戸の水面の深さが2mほどだとすると水面は18mとなるから、原理的にはできなくはない。
 これまで水が涸れたことはなく、また水質もよく、保健所の水質検査でも毎回飲用適となるそうだ。一時期マスコミに取り上げられて行列ができ、参拝者の迷惑となったため、今ではあまりおおっぴらに飲めるということは言っておらず、テレビの取材もお断りしているとのこと。
 水温も一定で、神職者として毎朝水浴をするが、夏は冷たく、冬場は温くて快適だ、また、境内の地面に神泉までの導水管が埋めてあるが、冬場に雪が積もるとその上だけ溶けていて、そんなことからも水を実感できるとのこと。神泉からあふれた水は想像通り石段下の池にひき入れており、木々に囲われているのに魚を求めてシロサギが飛んできたことがあったそうだ。

 1936年の建造になる社殿は台地の斜面を背後に、楠の大木に護られるように囲まれ、清々しい。春に落葉するクスノキがちょうどその盛りで、黄色くなった落ち葉が風に舞う。朝掃いたばかりなのにもうこんなに落ちてしまった、と言いつつ、水に育まれた緑に囲まれてありがたい、毎日この神泉の水を飲んでいるおかげで大きな病気もかからず過ごせている、柔らかく、甘い味がするのでぜひ飲んでみてほしい、とこちらの神社でもまた、お話しの端々から、水への想いが伺えた。

 神社の裏手は小学校になっていて、下校時刻の子供達が神社の中を賑やかに通り抜けていく。社務所からお暇した後、三々五々と参道の石段を下っていく子供達の脇で、柄杓に汲んだ水を飲んでみた。確かに柔らかく、甘い味がした。やがて人波は途切れ、再び境内は静寂に包まれて、水鉢に注ぐ水のちょろちょろという音だけが残った。


住所:目黒区中目黒3
水量:普通
用途:手水、池
立地:目黒台
タイプ:崖線(井戸)
湧出地点の標高;15m
水温;17.1度
水系:目黒川
東京都湧水台帳コード:Me-07

地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

2019年4月14日日曜日

十五番:烏森稲荷神社 See you again 狐の口から出る湧水(2019/10/22追記)

2019/10/22 狐の口からの湧水復活について文末に追記しました。
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 つぎの巡礼先は東山貝塚公園から南東に1kmほど、上目黒3丁目にある烏森稲荷神社の湧水だ。貝塚公園とは、目黒台の一部が岬状になっている丘を挟んだ反対側に位置している。
 烏森稲荷神社は目黒川の谷から分かれた蛇崩川の谷の北側斜面に鎮座する、かつての上目黒村宿山(のち烏森も)の鎮守社だ。宿山は神社背後の台地上、現在の野沢通り付近にあった集落で、明治にはその東側が、神社の名前から字名を取り烏森となった。さらにその東、台地の岬の先端は、今では高級住宅地となっている諏訪山だ。

 神社は17世紀後半の創祀と伝わり、一説によれば村人の稲荷講が新橋の烏森神社(明治初期までは烏森稲荷神社)を訪れた際、帰りに白狐がついてきたのを祀ったのが始まりともいう。境内はそれほど広くはないが、斜面の南に面して日当たりが良く、隅々までよく手入れされていて心地よい空間になっている。

 境内には蛇崩川の谷底から石段で少し上がるのだが、社殿は大谷石の擁壁でさらに一段高くなっている。その正面の左手の擁壁前に手水舎がある。ここが今回目指してきた湧水だ。

 この手水舎の吐水口、狐の顔になっていて、狐の口から水が出てくる仕掛けとなっている。近年は涸れていることが多いと聞いていたがこの日も残念ながら見ての通り、狐の口元は乾いていた。

 狐の頭を上から見ると、擁壁から出た導水管に繋げられていることがわかる。別の場所から導水しているようだが、水源はどこだろう。そして水盤にはきれいな水がたまっていて、鮮度もよさそうだ。湧水は止まっているのに、どういうことだろうか。

 境内をうろうろしたり佇んだりしていると、社務所から老婦人がお出ましになり、声をかけていただいた。お出かけするところだったが話が弾み、いろいろと神社の水環境について教えていただいた。

 ご婦人の話によれば、湧水はかつてはかなりの水量があったが、神社の裏手の宅地化が進んで、緑も減り、以前より涸れがちになっているそうだ。特に今年は雨が少なく、湧水はしばらく途絶えているが、雨が続けばまた湧くだろうという。そして、水盤に水があるのは、参拝者のためご婦人が毎朝入れ替えているからとのことだった。

 狐の口から出る湧水の水源について尋ねてみたところ、社殿の裏側の崖下にあるという。水はいったんそこで溜まるようになっていて、一定の水位を越えると地中に埋めた配管に溢れ出し、手水舎の吐水口から出るような仕掛けになっているそうだ。かつては更に水量が増すと、別の配管に入って石段を挟んだ反対側の擁壁にも出ていたとか。手水舎と狐は昭和初期に作られたもので、狐の耳はいつのまにか欠けてしまったそうだ。

 お話しを伺ったあとで実際に社殿の裏側を見てみると、コンクリートの丸蓋と矩形の鉄蓋の2か所の水溜めらしき設備があった。

 ちょっと失敬して鉄蓋の方の中を覗いてみる。蓋を開けると湿気をたっぷり含んだ暖かい空気がもわっと放たれた。蓋の裏には水滴がたっぷりとついていた。中は浅い素掘りの窪みとなっていて埋もれかけた配管が見える。ここに湧水が浸み出してくるのだろうか、それとももう一つの丸蓋の方に湧きだした水の中継ぎだろうか。標高は19mと東山貝塚公園の湧水と同じだ。
 それにしても、底に鮮やかな黄色の花が落ちているのが不思議だ。一体どこから入り込んだのだろう・・・。そういえば、水盤にもおちたばかりの緑の葉が1枚、底に沈んでいた。

 ご婦人のお話しに戻る。神社の境内は地中の水が豊富で、社務所の建て替えの際は、地下水対策で基礎工事をかなりしっかりと行ったくらいだという。また、日当たりもよいため、木々や草花がよく育つそうだ。確かに境内を見渡すと、社殿を囲む木々の他、各所に草花が植えられていて、新緑や花の色が鮮やかだ。古い擁壁の下など、子供が立ち入ると危ないような箇所に、ただ禁止の立札を立てるのも無粋なので、草木を植えることで自然と近寄れなくするようにしているのだという。

 伺っていて面白かったのは参道脇の丸い花壇。ここは実はお焚き上げをする穴だという。よくあるように板などで蓋をするのもよいが、それでは殺風景なので普段は花壇にしておき、年末年始の期間だけ掘り起こして花を植え替えるそうだ。

 そのほか、蛇崩川が暗渠化する前、大雨で氾濫して鳥居の下まで水が来たこと、大木の枝払いの話、戦後、社殿の屋根を茅葺から瓦に変えた時のこと、神社の立地には湧き水が関係しているだろうということなど、いろいろとお話しは尽きず。この冬から春にかけては草木に勢いがなく、やはり少雨の影響で地下水が減っているのではないか、緑の様子をみれば環境の変化がよくわかる、水がなくては人は生きていけない、自然に対しては人間はどうすることもできないのだから、謙虚にならなくては、といったことをおっしゃっていたのが印象的だった。

 新元号を記念してつい先日紅梅と白梅の苗木を植えたので、最初の花が咲く来年またいらっしゃい、とのお言葉を最後にいただいたが、来年といわずまた梅雨の後にでも訪れて、今回は見ることは叶わなかった、狐の口から流れ落ちる湧水を確かめてみたい。

【2019/10/22追記】========

 記事を記したのち何度か烏森稲荷を訪問してみたところ、7月下旬に訪れたときにはぽつぽつと滴る程度ではあるけど、狐の口からの湧水が復活しており、10月12日の台風19号襲来ののち1週間ほどして再訪すると、写真のように完全に復活していた。

水温は19.1度。水は澄んでおり、水質も悪くなさそうだ。台風の影響で地下水位が上昇したのだろう。日が暮れてからの訪問だったので、社殿裏手の水溜めのほうは確認できなかったl

せっかくなので映像もあげておこう。


 もう少し中目黒駅に近い諏訪山にのぼる坂の途中に、10年ほど前まで湧水があった。現在では住宅が建てられていてわからなくなっていたが、今回訪れたところこちらも路面から水が浸み出しており、また側溝の雨水桝の中でも湧水と思われる澄んだ水がかなりの勢いで流れ込んでいた。蛇崩川左岸側の台地全体の地下水位が上がっているのかもしれない。
========【追記ここまで】


住所:目黒区上目黒3
水量:なし(2019年4月〜6月)わずか(2019年7月)少ない(2019年10月)
用途:手水
立地:目黒台
タイプ:崖線
湧出地点の標高;19m
水温;19.1度(2019年10月)
水系:蛇崩川
東京都湧水台帳コード:Me-5

地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

2019年4月9日火曜日

十四番:東山貝塚公園 目黒川の正統性を担う小さな湧水

 本郷台の崖線を王子から赤羽まで辿ってきたが、ここでいったん場所を目黒へと移そう。ところは目黒区東山。目黒川の谷筋に面した緩やかな斜面に「東山貝塚公園」がある。道路で2区画に分かれた敷地のうち、西側の方に入るとすぐに池がみえる。その水の源は公園の奥の擁壁の下から湧き出す水だ。崖の上は目黒台と呼ばれる台地で、本郷台と同じく武蔵野台地のM2面に属している。

 公園の名の通り、この地で明治時代中期、人類学者坪井正五郎らにより貝塚が発掘された。当時は西ヶ原貝塚、芝丸山貝塚とならび東京市3大貝塚とも呼ばれたという。縄文中期から晩期にかけて、現在の目黒川の流れる低地は入り江となっており、その水辺に形成された貝塚であった。関東大震災後の土地区画整理時には、考古学者鳥居龍蔵などにより台地の上で竪穴式住居跡や土器、石器も発掘され、その後の調査で、弥生時代から古墳時代にかけての長期間にわたり人々が暮らしていたことがわかったという。

 水の湧き出す公園の奥の擁壁まで近づいてみる。柵に阻まれて直接確認はできないが、崖下に並行している溝の各所で水が湧きだしているようだ。標高は19mほど。王子~赤羽の湧水の10mに対してこちらのほうが10m近く高い。そして崖上の標高は27m。今はコンクリートに塗り固められた崖だが、かつては緩やかな斜面だったのだろう。台地の上に住居を構えた縄文人は、その斜面を下り、湧き水を汲みに来ていたのだろうか。

 湧いた水はT字状に一か所に集められて柵を越え、公園内へと流れ込む。2月に訪れたときは、少雨の影響か水は涸れていたが、4月に入って再訪すると幸いにも復活していた。水温は16.8度。都内の他の場所の湧水と同じくらいの、夏は冷たく、冬は暖かく感じる温度だ。手を触れると冷たすぎずも温くもなく、ちょうどよい。

 写真では水面が動いておらず水量がわかりにくいが、動画で見ると一定の量の水が流れ出していることがわかるだろう。2004年夏期の調査では毎分20リットルほどの湧水量が記録されているが、この日はそこまでの水量はなさそうだった。

 石組の親水路の流れは緩やかな斜面を下って池へと注ぐ。水辺を走り回る子供たち。夏ベンチには一休みする勤め人。のどかな春先の風景が心地よい。

流れの右岸(写真左側の石段下)には格子の蓋がされた雨水桝があり、この中でも水が湧きだしていて親水路の水に加わっている。

格子の間から覗き込むと、崖下からよりもむしろ多いくらいの水が雨水桝に注ぎ込んでいた。こちらは2月に訪れた際も涸れておらず、親水路のせせらぎを維持していた。柵が邪魔して直接水に触れることはできないが、水温を測ったところ、17.4度とほぼ同じくらいだった。

 さて、池に注いだ水はそこからさらに流れ出して、排水口へと落ちていく。これまでみてきた湧水はどれも最後は下水道へと流れ込んでしまっていたが、ここの湧水はちょっと違っている。水は道路下を暗渠で流れ、北東に150mほど離れた目黒川右岸(南側)沿い、常盤橋の袂で親水路として再び姿を現すのだ。

 親水路にはミニチュアの水車小屋も設置されていて、桜の咲く季節だけ、樋に引き込んだ湧水で水車が回っている。背後には大橋ジャンクションのループがそそり立つ。

そして目黒川沿いを50mほど流れたのち、万代橋の手前でその水は擁壁の穴から目黒川へと注ぎ込んでいる。
 100mほど上流、常盤橋の奥には、目黒川暗渠の出口が見える。暗渠から流れ出している一日3万立方メートルの水。その水はしかし、暗渠の先の川から流れてくるのではなく、新宿区の落合水再生センターから導水された下水高度処理水だ。落合水再生センターに集まる下水の大部分は神田川流域の水だから、いってみればいま目黒川に流れている水は神田川水系の水だ。
 一方その水に加わる東山貝塚公園の湧水は、いにしえから目黒川に流れ込んでいた、正真正銘の目黒川水系の水だ。水量は再生水のわずか0.1%にも満たないが、人工かつよその水系の水が流れる目黒川にあって、この湧水が加わることで初めて、川の流れに目黒川の水としての正統性が生まれるといっても過言ではない。
 ささやかな湧水が纏うこの”本物の目黒川の源流”という役目を想うとき、その水がいつまでも涸れないことを願わずにはいられない。


住所:目黒区東山2
水量:普通
用途:親水路、池
立地:目黒台
タイプ:崖線
湧出地点の標高;19m
水温;16.8度
水系:目黒川
東京都湧水台帳コード:Me-03
地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工