稲付谷の北側に、同じように本郷台地に深く食い込む谷がある。広く知られる名前はなかったようだが、亀ヶ谷とする文献もある。谷底の幅は稲付谷よりもかなり広く、谷の出口には明治時代中頃まで亀が池と呼ばれる大きな溜池があって、灌漑に利用されていた。池は大正初期までには埋め立てられ、現在は小さな池(湧水ではないようだ。)とその中島に祀られた亀が池弁財天に名残を残す。
赤羽駅から南西に延びるその谷筋を遡っていくと、10分ほどで赤羽自然観察公園にたどり着く。公園の入り口そばには水鳥の池と名付けられた池が水を湛えている。フェンスに囲まれ林に接した池の水辺には近寄ることはできない。
池のほとりには細長い水田が拓かれていて、小高くなったその奥には、古民家が控えている。
赤羽駅前の猥雑さからはまったくかけ離れた里山の風景だが、昔からこうだったわけではない。谷を囲む赤羽の台地の上は、明治時代より陸軍火薬庫、被服本廠、兵器庫といった軍事施設が広がっていた。そして、亀ヶ谷の谷頭部を横切って陸軍兵器補給廠専用線がそれらを結んでいた。以前は水田が広がっていた亀ヶ谷の谷も、やがて軍用地に取り込まれていった。
「今昔マップ」より2万5千分の1地形図「赤羽」大正8年測量
戦後になると一帯は米軍の接収を経て自衛隊十条駐屯地赤羽分屯地となった。その返還後に整備を経て、1999年に赤羽自然観察公園として開園したのが現在の風景の起点だ。古民家はもとは浮間地区にあった1844年築の松澤家住宅を「ふるさと農家体験館」として移築・復元したものだ。背後の台地の上には高層の公務員住宅がそびえたち、空間の異質さが際立つ。
水田には春になると公園内の小川から水が引かれ、稲が植え付けられる。その小川の流れは二手からやってきて、水田の手前で合流し、水田と水鳥の池に注ぐ。下の写真は合流地点を上流側から眺めたところだ。手前からの流れと、右手からの流れが奥で合流している。
右手、南側からの小川は自然の湧水の流れで、ちょっとした渓谷風になっている。水源は自然保護区域の中になっていて近づくことはできないが、谷の南側斜面の下から湧き出しているという。湧出地点の標高はおそらく15mほど。これまで見てきた本郷台の湧水はいずれも10mほどなので、やや高い地点から湧いていることになる。清冽な水は水量も多く、澄んでいる。東京の名湧水57選にも選ばれていて、都のサイトで湧出口の写真を見ることができる。
一方北側の小川は、閑散とした木々と薮の間をせせらぎとして流れてきており、そばまで近寄れるようになっている。心が和む風景だが、ただこちらの水質は南側の流れに比べわずかだが透明度が落ちるように見える。
遡っていくと湿地となっていて、産卵期を迎えた蛙の声が賑やかに響く。その先は南側と同様自然保護区となっていて入れない。保護区の中にはやや荒れた、木々に囲まれた冬枯れた谷戸の風景がみえる。これらは自然の風景ではなく、自衛隊の駐屯地だった時期は木々は少なかった。公園整備時に、かつてあったであろう在来の植物を植栽し、その後あえて手を入れず本来の植生の回復を狙っているという。
そして、谷戸状の地形もまた、実は自然のそのままの姿ではない。駐屯地時代、谷の地形はかなり改変されており、戦車の漏水試験用の水槽が掘られていたという。そのため、返還後に谷の痕跡を生かしつつ新たに緩い斜面の谷を作り直したという。幸い湧水は駐屯地だった間も湧き続けていたため、保全措置がとられ小川も整備された。
さらに、一見同じように流れる2つの小川も、実はその性質を異にしていた。南側の流れは全て湧きたての湧水だが、北側の流れは湧水量が少ないため、南側の流れの湧水を再利用し加えているという。つまり、水鳥の池に一旦注ぎ込んだ湧水を、北側の流れの谷頭までポンプアップして流しているのだ。北側の流れの水質が落ちてみえるのは、このためだった。この情報を得て葉の落ちた木々の間をよく見ると、沼地となっている谷底の一番奥にその注ぎ込み口が見えた。
東京の名湧水57選にも選ばれているということで、なんとなく2つの流れの両方が自然な湧き水だと思っていたが、今回その真相にたどり着き、やや拍子抜けした。とはいえ人の住む地で人の手が加わらない風景などないわけで、水が水道水や地下水の汲み上げというわけでもない。放っておけば下水に流れ込んでしまう湧水を再利用し流すというのは、これはこれで風景の回復策のひとつとしてありなのだろう。
住所:北区赤羽西5
水量:普通
用途:川、水田、池
立地:本郷台地
タイプ:谷頭
湧出地点の標高;15m
水系:無名河川
東京都湧水台帳コード:Ho-10
地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工
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