2019年4月25日木曜日

十七番:中目黒ガスタンク跡の湧水と「松風園」の湧水池

 「平成」の初め頃まで、中目黒の台地の麓に、一帯のランドマークとなっていたガスタンクがあったのを、地元の方ならご存じだろうか。この通称「目黒のガスタンク」は1927(昭和2)年に竣工した、高さ45m、直径56mの円筒形のガスタンクで、目黒台の斜面を抉るように削って建てられた。元々は牧場のあった土地だという。タンクの立つ場所の標高は12m、目黒台の上は標高27mほどだから差し引き30mほど台地の高さを越えていることになる。ビルの高さに換算すると10階建てくらいだろうか、当時の目黒ではガスタンクは非常に目立ったに違いない。
 同じ年に東急東横線が渋谷まで開通、周囲は急速に市街化が進んでいったが、このガスタンクの敷地は台地上から斜面にかけて広葉樹の巨木が生い茂る森が残り、そこには水が湧き出していた。終戦直後の昭和21年、子供時代にこの湧水を見た方の回想から引用してみよう。

「傾斜地の下方の樹木や下草の間から清水が湧き出ていた。それは小さな流れを作り、低地には清らかな水をたたえた池ができていたのである。思わず近づいて池中を覗きこむと、水草が茂り、小魚が群れ、藻の陰には小エビが生息しているのが見えた。流れのある傾斜地にはサワガニが姿を見せていた。」
(平山元也「中目黒のガスタンクと高砂ゴム工場の煙突」(郷土目黒45号)より)

 1960年代にはガスタンクを囲む森の一部は東京ガスの社宅となって、切り開かれ、また、1972年にはタンクを筒状のものから球形に変更する工事も行われた。それでもこの湧水は残り続け、1988年の東京都の調査でも、1日5000リットル(1分あたり3.5リットル)ほどではあるが湧水が確認されている。
 1991年にガスタンクは台地上の社宅とともに撤去され、跡地は1995年にマンションとなった。ガスタンクのイメージを残した、円形に配置された独特の構造のマンション群の一角には「中目黒大使公邸」も建てられている。中目黒の大使というわけではなく、30か国の駐日大使が暮らす、大使専用のマンションだ。
 ガスタンク撤去前後の地形図を比較してみよう。
出典:一万分の一地形図「渋谷」左:1990年 右:1995年 国土地理院

 では湧水はどうなったのだろうか、というと、幸いにも開発時に目黒区の手により保全され、中目黒南緑地公園として残されている。現地を訪れてみた。

 公園の大部分は台地の斜面にあり、中央を南北に階段が抜けている。台地の上のマンションが高低差を強調している。

 階段の途中から北側を振り返ると、左手の階段を下りきったところに池がみえる。背後にはマンションの棟が迫り、ぎりぎりのところで保全されている様子がわかる。

少し角度を変えてみると、池に注ぐ水路が見える。この春は各地で湧水量が減少しているのだが、かろうじて水が流れている。

 湧出口は階段の西側の斜面にあって、草木に遮られて見えにくいが、えぐれ込んだ石組みの上からちょろちょろと流れ落ちている。

斜面となった水路を流れる水。湧水が多い時期ならもう少しはっきりとしたせせらぎとなるのだろうか。

 水は池へと注ぐ。水辺に近寄れないため、池の中に今も小魚や小エビがいるのかどうか、よくわからない。

 確かに湧水は今でも湧いていた。しかし、全く近づけないのはどうしたことか。水が湧水であることがどこにも触れられていないのも、少し寂しく思える。自然のままの水路や池を残しているわけではないのだから、親水性を持たせるような作りにしても問題なかろう。そうすれば、土地の来歴にももう少し関心がもたれるのではないか。今の子供にも、終戦直後のきらきらするような水辺の体験を味わえてもらえたらよいのだが、現状ではとても無理そうだ。

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 ガスタンクの湧水の南東50mの場所にも、もうひとつ、近寄れない湧水池が残っている。池は松風園コーポと松風園ハイツという2つのマンションの奥の崖下にある。東京都の湧水台帳には「松風園」と記されているが、マンションの敷地というよりは、その敷地の所有者である長泉院の池、といったほうがいいのかもしれない。
 長泉院は台地の上にあって敷地内に「長泉院付属現代彫刻美術館」を開設しており、彫刻の並ぶ公園のような屋外展示場の一角から柵越しに池を見下ろすことができる。
 池はコンクリートで固められた半月型をしていて、一見マンションの中庭のようにみえるが、マンション側とはブロック塀で隔てられているようだ。円筒形の鉢植えのような中島がいくつか設けられている。水は背後の崖線から湧き出しているようだがよく見えない。



 湧出地点の推定標高は15mと、ガスタンク跡の湧水と同じだ。湧水量も1988年の東京都の調査では1日5000リットルとこれもガスタンク跡と同じ。池の大きさからするとかつてはもっと湧いていたのかもしれない。
 長泉院の創建は1761年。それ以来1960年代まで、その本堂は現在マンションが建つ崖下にあった。寺院の名も、裏山から湧いた清水が境内に流れをなしていたことによるという。まさにこの池の水源の湧水であろう。1970年代初めに本堂は崖上に移転し、前後して崖下の敷地には松風園コーポ(1968年)と松風園ハイツ(1970年)が竣工、現在の池もそのころに整備されたようだ。
 さて、この「松風園」という名前は何に由来するのか。中目黒八幡神社からなべころ坂の間にかけて、1890年代に、広部銀行の創設者広部清兵衛の別荘「驪山荘」があった。8万平米に及ぶ敷地には斜面に庭園、丘の上に屋敷があったといい、銀行の接待にも利用されていたという。
出典「東京府荏原郡目黒村」(明治44年)東京逓信管理局

 地形図を見ると、かなり大きな池の姿も見えるが、大正後期にはこの敷地は高級分譲住宅として開発されることとなった。土地は造成され、池も埋め立てられた。しかし、昭和に入って広部銀行は経営悪化(1930年には廃業)、開発は箱根土地株式会社の手に移った。西武グループ、国土計画の前身である箱根土地はこの時期、小平学園や大泉学園など、都内各地の開発を手掛けており、それらの中で驪山荘跡は1935年前後より分譲が始まる(同時期に代々木上原の徳川山も分譲)。この際に名付けられた分譲地の名前が「松風園」だ。分譲開始直後の航空写真では、ガスタンクの北側にゆったりとしたその区画を確認することができる。
 出典:地理院地図 航空写真 1936年

 松風園の土地区画は現在でも道路の区画にその名残をとどめている。冒頭地図、中目黒八幡神社とガスタンク敷地の間に挟まれた扇型の区画がそれだ。したがって、松風園のあった区画と現在松風園を名乗る2つのマンションのある場所は当初からガスタンクの敷地で隔てられており、全く関係ないといえばない。
 なぜ松風園を名乗っているのか、マンションが建った時代はまだそれだけネームバリューとブランド性があったのだろうか。関係者に訊いてみたいところだ。ただいずれにしても現在松風園の名を残すのはここだけで、場所は違うけれども土地の来歴の記憶を残しているという意味では趣き深い。

【ガスタンク跡】
住所:目黒区中目黒
水量:わずか
用途:池
立地:目黒台
タイプ:崖線
湧出地点の標高;15m
水温;ー
水系:目黒川
東京都湧水台帳コード:Me-8

【松風園】
住所:目黒区中目黒
水量:不明
用途:池
立地:目黒台
タイプ:崖線
湧出地点の標高;15m
水温;ー
水系:目黒川
東京都湧水台帳コード:Me-9
地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

1 件のコメント:

  1. 今62歳の私は40過ぎまで中目黒三丁目にすんで居ました。
    懐かしい。子供の頃の遊びのテリトリーでした。

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