2019年8月19日月曜日

三十四番:拝島段丘の湧水(2)民家のわさび田に湧く水

 次に訪れたのは宮沢の諏訪神社から東へ数百メートル、奥多摩街道から集落の路地に入っていったとある場所。ここにはなんと、江戸時代より続くといわれる、湧水を使ったわさび田が今もなお民家の庭先にひっそりと残っている。私有地内なので非公開なのだが、この夏、運良く、特別に見学させていただくことができた。案内してくださったのは昭和10年生まれ、今年で84歳になられる民家のご主人Sさん。
 母屋の裏手に回り込むと、木々の繁る拝島段丘の崖線の下に、日よけのネットに被われたわさび田が現れた。奥行き30mほど、幅5〜7mほどの、奥が狭い台形状のわさび田は2段に分かれており、それぞれに砂利の畝がつくられていて、その間を清らかな湧水が流れてきている。手前の畝には、わさびがぱらぱらと植えつけられている。

 こちらは奥の方のわさび田。水温を測ると18.5度。ここのところの猛暑でやや高めだが、わさびの生育条件にはぎりぎり大丈夫だ。わさびが育つには水はけがよく、直射日光の当たらない土地と、年間を通じて15度から18度の、豊富な湧水が必要だというから、崖線の森の下に水が湧き、礫をたっぷり含む地層があるこの場所はぴったりだ。

 一番奥には石垣があって、その下から水が湧き出しているようだ。過去の東京都や昭島市の調査をみると、1日に1000立方メートル前後(毎分700リットル)もの水量が測定されていることが多く、2300立方メートルもの水量が観測されているときもあった。標高は87m、諏訪神社の湧水とほぼ同じだ。

 崖線の下は丸石が積み上げられて、水がかなりの勢いで流れている。こちら寄りの畝にはわさびは植えられていない。Sさんによれば、今年は春先に湧水が止まってしまい、植えられなかったという。水が涸れたのは、覚えている限り10歳頃に一度涸れて以来2回目だそうだ。夏になって湧水は復活したものの、勢いはやや弱いという。わさびは1年半かけて育てるので今生えているのは昨年植えた株だが、いつもなら食べられる葉や茎も枯れたりして、今ひとつだったそうだ。

 わさび田を潤した水は一筋にまとまり、小川となって流れ出ていく。いつもは畝の間を流れるそれぞれの水が、小川となって流れ出しているあたりと同じくらいの勢いがあるという。

 奥のわさび田から水が湧き出す様子を映像でみてみるとこんな感じ。石垣や砂利の間にはサワガニがたくさん棲んでいるそうだ。このままでも十分美しいが、水量が平時の状態に戻り、わさびが植えつけられればもっと清々しい風景になるのだろう。

 手前のわさび田の映像はこんな感じ。板をはめる溝のあるコンクリートの柱が並んでいるが、こちらが一時期生簀にされていたのだろうか。

 わさび田の手前には祠があって、水神様、鎌倉の御霊社、そして稲荷社が祀られている。ご主人の話では近隣の民家十数軒で稲荷講が組まれていて、毎年2月に集まり、皆で飲み食いするのだとか。

 小川は近隣の家々の隙間や屋敷内を通り抜けていき、各家が生活用水として利用している。さきほどの水神様はその水源の守り神として、近隣からも信仰されているようだ。流れには他の湧水も加わっていくのだが、それらについては次回の記事で。

 このわさび田はSさんの話では物心ついた頃からあったとのことだが、昭島市によれば江戸時代後期に記された「新編武蔵風土記稿」に祠の御霊社と、そのそばの長さ36m、幅9mのわさびの生育する池が記されているという。今のわさび田とほぼ変わらない大きさと位置だから、少なくとも江戸時代後期からあったということになる。
 Sさんが知る限りでは、基本的には売り物にはせず、自家消費や近所の人へのおすそ分けして使ってきたが、戦争中の食糧難のときは、近隣の工場にわさびやその葉をご飯のおかずとして提供していたこともあったとか。また戦後の一時期、一角を生簀にして、近所の魚屋のうなぎを預かっていたとか。

 Sさんは、台地の上の開発が進んでいるし、湧き水がいつまた止まるかわからない、わさび田もどうなるかな、といったニュアンスのことを仰っていた。ご高齢でもあるし、続けていくのも大変だろうが、この貴重な空間が残ることを願う。別れ際、またいつでもおいで、と仰ってくださった。わさびは毎年3月に花を咲かせるというから、その時期にまたできれば訪ねてみたいものだ。



住所:昭島市宮沢町2
水量:多い
用途:わさび田・川
立地:拝島段丘(東京都の立地区分による)
タイプ:崖線
湧出地点の標高:87m
水温:18.5度(2019/8)
水系:中沢堀〜昭和用水〜残堀川
東京都湧水台帳コード:Ha-15

地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

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