2019年5月18日土曜日

二十番:目黒不動の独鈷の滝。その水源は…

 羅漢寺川跡沿いの湧水、蟠龍寺の湧水池に続いては、東京の名湧水57選に選定されており、広く知られている目黒不動の湧水を訪ねてみよう。
 「目黒不動尊」として知られる 瀧泉寺(りゅうせんじ)は、808(大同3)年の創建と伝わる、関東最古の不動霊場とされる天台宗の寺院だ。開基の際、慈覚大師が地面に独鈷を投じたところ、泉が忽ち湧き出したとの伝説が伝わり、これが寺院の名前の由来になっている。 江戸時代には徳川家光の帰依を受け、大変なにぎわいを見せる行楽地となった。目赤、目白、目黄、目青不動とあわせた江戸五色不動のひとつでもある。
 境内は目黒台とその下の低地にまたがって広がっており中ほどを崖線が東西に横切っている。低地側にはかつて、門前を羅漢寺川が流れていた。崖上の標高は19m、崖下の低地は10mなので、その標高差は9mほどとなる。台地の上にある本堂に向かってその斜面を男坂と呼ばれる石段が上っているが、その左手に、独鈷によって生じた泉の水を引いたとされる、その名も「独鈷の滝」が懸っている。こちらが目指す湧水だ。

 斜面の上部は土が露出していて、木々の下には石像が並んでいる。その下部を石垣が覆い、そこに設けられた2つの竜の吐水口から湧水が滝となって落ちる。滝の水は「龍御神水」と呼ばれ「開山以来、千百有余年涸れずに流れる霊水」とうたわれている。
 吐水口の標高は13mほどと、羅漢寺川沿いの湧水とほぼ同じ高さ。あちらでは地面に近い位置だったが、ここでは3m弱ほどの落差があり、それだけ羅漢寺川の流れる低地が下ってきているということだ。どちらも水を通しにくい東京層の地層が擁壁や石垣の裏側で露出し、その上から湧水が流れ出していると思われる。
 滝壺の池はそれほど深くはなく、底には石が敷いてあり、かつては不動行者の水垢離の場となっていた。 江戸時代の浮世絵でも、現在とほぼ変わらない、石垣を二筋の滝が落ちる風景や、滝を浴びる人の姿が確認できる。

 2つの竜のうち、左側の方は周囲の石垣の隙間からも水が漏れている。

 今では水垢離はできないが、代わりとして1996年に「水かけ不動明王」が建てられた。(1枚目写真に写る像)。滝の水をひいた水鉢の水をこちらに掛けることで、身代わりに滝泉に打たれてくれるそうだ。

 池の傍らには、青竜大権現を祀る垢離堂がある。90年代半ば頃までは、左側の竜の吐水口の下から石垣沿いに垢離堂前まで樋が懸っていて、そこに水を汲みにくる人の姿がよく見られた。現在は樋は外され、垢離堂の前も柵がされて、立ち入れないようになっている。

他にも境内各所に水が引かれていて、水の名所であることを印象付ける。こちらは垢離堂前の水鉢。

垢離堂の奥には江戸時代に建てられた前不動堂があり、その前にも割と新しい、小さな竜の吐水口がしつらえてあった。

正面の男坂の石段の右手には、緩やかな女坂の石段があり、その側面でも鯱のような石像の口から湧水が流れ落ちる。

 山門の左手、バス通りを挟んだ区画には三福堂の池がある。こちらの水は濁っており、直接水が湧いているわけではなさそうだ。池のほとりのお堂には恵比寿様・弁財天・大黒天が祀られており、その中で「山手七福神」としては恵比寿様の参拝先の役目をもっている。

 三福堂前には「金明湧水 福銭洗い」があるが、水鉢は茶色に変色しており匂いを嗅いで見ると鉄臭い。崖線の湧水とは別の、鉄分が高い地下水をくみ上げて流しているのだろう。

 ほかにも、見ることはできないが、庭園や阿弥陀堂裏手の池などがあるようだ。いくつかの水は集められて水路をなし、羅漢寺川暗渠の近くまで流れている。かつては川に注いでいたのだろう。

 このように、目黒不動尊境内は各所に水がフィーチャーされている。都内でここまで水を前面に出している寺社は、ほかには深大寺くらいだろうか。ただ、深大寺の方は周囲に緑も多く、各所で自然に水が湧いているのに対して、こちらは周囲には家々が密集していて、緑があるのは崖線上部の境内くらいだ。確かにすぐ近くの同じ崖線にある羅漢寺川沿いの湧水(前々回)は比較的水量が多いが、これだけの水を果たして賄えるのだろうか。
 少し気になっていたのが、3月に訪れたとき、独鈷の滝の水が間欠的に流れ落ちていたことだ。自然の湧水そのままが流れ落ちていれば、このようなことは起きないはずだ。一方このとき、滝壺の池の水位はいつもより低くなっており、4月、5月に再訪したときは水かさは増していた。これは季節や天候による地下水の水量変動が現れているということだ。真相を知るべくお寺の方に伺ったが、詳しくない方だったのか、それとも喋りたくないのか、要領を得ないお答えだった。

 いったんはそれで終わったのだが、どうにも気になったので、再再訪して滝の周囲をよく見て回った。すると、滝の脇、小高く奥まった場所にある前不動堂の傍の崖下に、コンクリートブロックで囲われた小さな小屋を見つけた。

 近づいて見ると、水が流れ落ちる音がする。そして隙間から覗き込むと浅井戸用のポンプ「New Kegon」のラベルが見えた。どうもここから、前不動堂前と垢離堂前に導水しているようだ。数メートル東は独鈷の滝の滝壺となっていて、そちらにも送水している可能性もありそうだ。

 小高くなった敷地から垢離堂の裏側を見下ろすと、そこからはじわじわと水が湧き出していて、パイプと溝を使って独鈷の滝の滝壺へと流されていた。この一角で今でも水が湧いていること自体は間違いなさそうだ。

 さて、考えてみる。ポンプの標高は独鈷の滝とほぼ同じということは、地下水の水脈は滝と同じか、もしくはそもそもこちらが水源だったということか。烏森稲荷神社の手水鉢のように、離れたところで湧く水を導水して落とす、というのはわりとよくある事例だ。次にこのポンプは湧水を単に分配送水するためなのか、それともある程度井戸のように掘り下げて。汲み上げているのか。3月のときに間欠的に水が落ちていたということは、少なくとも一旦水は溜まっているのだろう。また、5月に改めて訪れた際はモーター音は聞こえなかったことから推測すると、湧水は自噴井戸となっていて普段はオーバーフローで流れ出していて、水位が低くなった時にだけ稼働して汲み上げているのかもしれない。いずれにしても、「開山以来、千百有余年涸れずに流れる霊水」は、その水脈は確かに変わっていないようだが、地上への水の流れ出し方はおそらくかつてとは変わっていそうだ。

 今回あらためて、目黒不動の湧水に関する古今の資料をひととおり漁ってみたが、これだけ有名にもかかわらず、その水そのものについて、詳細にまでふれているものは見当たらなかった。それは誰も特に興味を持たなかったからなのか、それとも何らかの意図で触れられてこなかったからなのか。不動尊の縁起にかかわる、いわばアイデンティの根幹をなす水、それ今も湧き続けているのは素晴らしいことだが、いまひとつ、もやっとした思いが残ったままとなった。


住所:目黒区下目黒3
水量:多い
用途:滝、手水、池
立地:目黒台
タイプ:崖線
湧出地点の標高;14m
水温;16.2度
水系:目黒川(羅漢寺川)
東京都湧水台帳コード:Me-10
地図出典:カシミール3Dで基盤地図情報EDMデータ及び地理院地図を表示したものを加工

2 件のコメント:

  1. やっぱり目黒台は旧い、良い湧水が多いですね。人と土と水が、他のところよりも、よく交じりあっているように思います。本郷台北縁ほどではないとしても。東京23区域では最も早く、人が住み着いた場所の一つなのではないでしょうか。

    東京の旧い霊地は天台宗のお寺になっていることが多く、真言宗のときもあるので、おそらく平安時代の初期に、土着の信仰が仏教に読み換えられたのだと思います。東北でもほぼ同じ時期に同じことがおきるので、当時は関東と東北が同じ「あずまの国」だったのがうかがわれます。
    目黒不動もたぶんその一つで、等々力不動とはまたちがう形で、昔の信仰の姿をよく残しているように思います。西郷信綱さんの『古代人の夢』の「こもりくの初瀬」に描かれているような、崖と水と地主の女神さまがおられる感じで。奈良の初瀬のように、十一面観音もあれば、なおよいのですが。
    西郷さんは初瀬は葬地でもあると書いていますが、だとすると、目黒不動も羅漢寺川の対岸の桐ケ谷までふくめて、霊地だったのかもしれません。

    「独鈷の滝」に関しては、ぼくの知る範囲では、『江戸名所図会』巻三に出てきます。ちくま学芸文庫版だと『3』の124頁。
    それによると、実は過去にも涸れたことがあるようですww。そのときは江の島の弁財天にお祈りして、元に戻ったそうで。たぶん、もともとはここにも弁財天がおられたのでないでしょうか。
    「開山以来、千百有余年涸れずに流れる霊水」も、好意的にとれば、その辺の込みの解説かも。物理的な湧出状態とは別に、千百有余年霊水として、その流れが信仰されてきた、という意味で。

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  2. 丁寧なコメントありがとうございます。涸れたこと、あったのですね。確かに信仰の対象の、いわば観念の泉として1000年以上それが絶えずに続いている、という意味では間違い無いのかも知れません。

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